お侍様 小劇場
 〜番外編

***7“仲たがい…(え?) (お侍 番外編 71)
 


薄く開いた障子に手をかけ、見やった庭先には、
つるりとした感触の、冷ややかな夜気が垂れ込めていて。
そんな中に冴え冴えと浮かぶ、
淡灰色の望月を遥か頭上の宙空に見上げておれば。
室内の側、廊下に面した襖の側から、
ほんのかすかな気配のそよぎがし。
さほど張り詰めていた訳じゃあなく、
むしろどこかぼんやりと、取り留めない気持ちでいたものが。
その気配には はっとして、
青玻璃の双眸にも表情にも張りが戻り、我に返れたらしくって。
真白き小袖姿も楚々として映える、
金絲に縁取られた細おもて、そちらへそおと向けたるは。
それまで見ていた皓月にも劣らぬ、
それはそれは瑞々しい美貌の青年で。
音もなく襖をすべらせ、部屋の中へと入って来た気配へと、
ややもすると戸惑い気味の視線を向ける様子が、
何とも言えず心細げで儚いが、

 「島田のことでも思うていたか。」
 「…久蔵殿。」

最初に訊かれたのがそれだったのへ、
七郎次の細い眉が心なし翳ってしまったのも無理はない。
彼もまた同じような小袖姿の青年の、端とした声音はいつものことで。
よって、特に詰
(なじ)られた訳ではない。
いつ何時でも、あの精悍な壮年へばかり、
その想いを馳せている七郎次だというくらい、
久蔵だとて重々知っているのだろうし、
彼の勘兵衛への従属ぶりは、
自身が仕える宗家の惣領へという枠を超えての、
もはや盲従と呼べるほどもの徹底ぶりであるのも承知の上。
だが、今宵ばかりは、
その納得にも危うい陰りが落ちている模様。


……………………………………………


というよな晩が、
そういや昨年の今頃にやはり伺えた同んなじお屋敷。
煌々という灯火を灯してまではないのだろう、室内の仄明るさを映して、
やわらかな明るさを滲ませていた障子に、そおと近づく影があり。
ややあって少しだけ、音もなく動いて合わせ目がするすると開く。
夜陰の垂れ込める庭を、そっと眺めやる人影が。
うら若き細おもての瑞々しさや、
束ねぬまま肩へと降ろしたくせのない金絲が、
身動きに合わせ、さらと震えては ちかきら光る様なぞは。
そろそろ寝入るそのための衣紋、
柔らかな生地の白小袖をまとった姿と相俟って、
それは清かに神聖でさえあり。
とはいえ、

 「………。」

どこか晴れない心を映したそれか、表情は悄然としていて力なく。
伏し目がちとなった目許も、
日頃は陽を透かす澄んだ青をたたえているものが、
今は…降ろされた睫毛の下、陰りを含んでの深色に沈んでいるばかり。
よほどの心想い、重たげな憂いがあってのことと見受けられ、だが、

 「…あのようなもののことなぞ、もう忘れよ。」

そのような言葉をかけて来た存在へ、
はっとしたように肩越し視線を向けたれば。
自分といてもなお、心ここにあらずな彼を、
(なじ)るというより、踏ん切りつけさせたくてのことだろう。
堅い言いようでもうふっ切れよと進言する青年がいて。

 「久蔵殿。」

彼もまた、同じような白小袖といういで立ち。
何しろここは彼の実家で、
普段の彼らが過ごす家のある都心よりも、
少しばかり季節の進みが早いところゆえ。
このような大層な寝間着をまとうことが
さして大仰ではない時候ではあって。
それ以上に、此処は由緒のある古風な屋敷。
島田一門の東方支家を長く束ねていた先代の威容が、
いまだ保たれているかのような、整然矍鑠とした風情がする武家屋敷。
此処で幼きころより育てられた久蔵は、
ともすれば 前時代の島田の気風を、
この若さで最も色濃く身につけている存在やもしれぬ。
さすがに“人より しきたり優先”なんぞという、
大時代の考えようなぞは、頭から嫌っている彼ではあるが。
それにしたって、ようよう知っているからこそ、
“忌むべきもの”という感触を持っているのであり。
今時の同世代の中にあっては浮いてしょうがない、堅物寡黙な彼は、
その鋭角怜悧で一本気な気性を、だが、
唯一この遠縁の義理の兄にだけは、暖かくもやわらげて見せる。

 とはいえ

こたびだけは、それだけでは適わぬ事態であるようで。
心強いお言葉ではありまするがと、
打ち沈んだ態の七郎次の眉間は晴れぬままであり。

 「このように庇い立てをされては久蔵殿にまで、」
 「懲罰でも下るか。」

そのようなもの、恐れはせぬということか。
鼻で嘲笑ったのは、決して七郎次の怯えようを軽んじてのことじゃあない。
それを下すこととなるのだろう相手への、挑発含んだ強気の鼻息。
そんな狭量な奴だったとは…とでも言いたげで、

 「そのような言いようは…。」

ついのこととて窘めかけて、
だがだが、赤い双眸に見つめられると、
七郎次にはそのあとの言葉がどうしても継げぬ。
それどころか、

 「シチ…。」

案ずるなと寄り添われると、
その温かさに心が落ち着く。
もう二度とお会い出来ぬ彼
(か)の人だという寂しさ、心許なさを、
どれほど支えてくれていることか。
こんな時に誰かに頼るなんていけないと、
頭では重々判っているのだけれど。
それでもこの彼の、不器用そうなやさしさにはどうしても絆される。
お互いにちょっぴり歯痒くて、それと判りやすいものではないところや、
それでも真摯で、だからこそ心へ真っ直ぐ染み入るところ、
どこかで あの御主の見せるそれと、
温みのようなものが似ているからなのかもしれない…と。
知らずそんなことを思った自分へとハッとする。

  ―― ああ、いけない。
     どうして比べたりするのだ。

これもまた、未練というものなのだろか。
もう二度とお逢い出来ぬのだと、
誰よりもそれが判っているだけに、
傷つき萎えた心は支えを無くして取り留めがなく。
そして、そんな自分であるのが、
この子にはありありと判ってしまっているのだろう。
いつだって…時には勘兵衛様より敏感に、
七郎次の気持ちの浮き沈み、ようよう気づいてくれた久蔵殿。
大きにうろたえていた自分を、まずはきゅうと抱きしめて、
どうか落ち着いてとなだめてくれて。
何があったか、ちゃんと把握したその上で、

 『…あのようなもののことなぞ、もう忘れよ。』

思いやったとて、元へと戻るワケでなし…と。
わざとにそんな言いようをする、気性の強い、頼もしい和子。
あまりの失態へと色を失い、
その場へ頽れ落ちたる愛しい母上をしっかと支え、
そのような…半端に人へと聞かれたならば、
どう誤解されたかも判らぬような。
恐ろしいまでの言いようをした彼であり。

 『俺は、シチが大事だ。』

あくまでも、七郎次をこそ優先する彼なのが、
くっきりと言い放って頑と譲らぬ一途な眼差しが。
今はすがるもののない身であるがゆえ、
泣きたくなるほど嬉しかったのも本当。
強引尊大な言い回しなのに、
なんとやさしく、甘やかなお言いようであることか。
求愛にも似たその文言に、含羞むかのよに思わず息飲み、
それで狼狽が止まった七郎次だったのへ、
真っ直ぐな眸を向け、うんと大きく頷いた彼だったのは、

  だからそんなに落ち込まないでと言いたかったか、それとも、
  シチを大事としない奴のことなぞ考えないでと言いたかったか。

そしてそして、取るものもとりあえず。
勝手のいいところへ一旦引こうと、対処はそれから考えようと。
久蔵の実家である木曽の支家へまで、その身を移した彼らであり。
逃げるように引き上げてしまったことが、
今になって気掛かりではあったれど、

 『…七郎次?』

床へと転げ落ちた、白いその欠片を、
信じられぬもののよに摘まみ上げた自分だったこと、
確かに見やった勘兵衛だったと。
なればこそ、
恐れおののき、
自ら謹慎せんとしての宿下がりをしたということ。
明日にでもその旨知らせることで、
事情だけはご納得いただけようと思ったと同時、
立派な矛盾ではあるけれど、
だったらだったで…納得されてもそれはそれでやはり寂しいと、
あらためて実感しつつ、なで肩をなお落としたその時だ。

 「……え?」
 「…っ。」

くよくよしていても始まらぬ。
殊に相手のないままでは、
悪いほうへ悪いほうへとしか思考は働かぬだろうから、
そろそろ休もうと促しに来た久蔵も、
前以て聞いてあったことではなかったらしく。
それが証拠に、ハッとするとそのまま、
暗くなった室内にて、
七郎次へと寄り添っての油断なく構えて見せたほど。
そう、いきなりの唐突に、
柔らかな行灯型のそれ、
一応は灯していた照明が落ちてしまったのであって。

 “いきなりの停電だなんて…………。”

場所といい時期といい、そういえばと思い当たることがなくもない。
思い当たりという言いようで合っているものか、
そういや昨年の今頃に、
似たような流れになった一騒ぎが起きなかったか。
ちょっとした誤解から、
丁度こんな風に、
自分を連れての木曽までの逐電を実行した久蔵殿だったのを。
人の妻を(〜〜//////)勝手に略取するとは許さぬと、
駿河の“草”の方々をお連れになっての、
此処だとて守りは堅い中、突入を敢行なさった誰か様。
どうやら他のお部屋も真っ暗になったにもかかわらず、
屋敷内がどこも静かなのは、
このあと何か起きるのではと警戒してのことだとして。

 「…っ。」

障子も襖も動かぬに、同じ室内に誰かの気配。
わざとに明らかにしたという滲み出しようだったのへ、
七郎次は弾かれたよにハッとし、
久蔵は逆にますますの警戒に身を固める。
双方ともに同じ人物を、
きっちりと把握したうえでの反応だというから穿っており、

 「…勘兵衛様?」
 「うむ。」

静かな是との応じへ、だが、
此処でやっと、七郎次もまた、
久蔵と同じ色合いの気色をその心持ちへと満たし直した。
だって自分は…と打ち沈みかかった横顔に、
ルームライトが消えたせいでか、
足元近くへ小さく灯ったは、
非常灯なのだろフットライトのほのかな明かり。
そして…、

 「お主ら、一体どういう料簡だ。」

まずはの声がさして怒
(いか)っておいでではないのが…こちらには意外で。
襟の尖った生なりのシャツに、
ざっくりとした編み目のセーターを重ね、
ボトムは焦げ茶のテイラーズラインのパンツ。
豊かな蓬髪を降ろしておいでなので、
この暗がりの中では肩の線が曖昧になっているが、
それでも精悍なその存在感は、少しも薄れずの頼もしく。
ただ…不可解な事態を胸の内にて持て余しておいでなせいだろか、
目許口許への冴えが、心なしか満ちてはおられぬような気もするが。
そんな口許、重く開かれ。御主が重ねた言いようは、

 「幽鬼でも現れたかのように怯えて見せたそのまま、
  伝言もなしに姿を消しおって。
  駿河の屋敷を端から端まで家捜ししてしもうたぞ。」
 「あ…。」

どこへ向かうかの書き置きなしでの出奔なんて、
全くの想定外、思いつけなんだということらしく。
どんな隠しごとを構えてだろか、
そそくさと後ずさりして去った後、そのままどこまで行ったやら。
その程度の把握でいた勘兵衛へ、
七郎次様もご一緒ならば、
こうまでの隠れんぼうもないでしょうとの家令の意見があってのち。
これはもしやして…と屋敷の外へと眸を向けた彼だったようで。

 「ですが、わたしは…っ。」
 「島田。大おばの壷、欠けさせたは俺だ。」

珍しくも腹に力を込めたらしき声は、静かな夜陰の中によく通り、
背後に庇ったお人の声を、あっさりと塗り潰してしまい。
当然、なんてことを…と
自分を庇う細い肩へ掴み掛かった七郎次であったが、
常ならすぐにも振り返ってくれる優しい和子が、
今だけは頑として動こうともしない。
ただの器物じゃあない、勘兵衛には実母の形見。
それを破損させただなんて
誰の仕業でもただじゃあ済まぬだろ衝撃の事実に他ならず。

 「久蔵殿っ。」
 「…壷というのは、あの唐風の緋牡丹が描かれてた白地のでかいのか?」

今度は勘兵衛までもが、七郎次の声を遮り、確認を取ってのそれから。


 「あれは、昨日今日欠けたものではないぞ?」
 「………………はい?」


あまりに大きく重い壷。
なので、そこを持って持ち上げることはまずはなかろう、
左右の猫脚風の取っ手のことであろう?と。
落ちたそれを摘まみ上げていた構図は覚えていたか、そうと訊く勘兵衛へ、
唖然としたままの七郎次がそれでも頷いて見せれば、

 「あれはの、儂が小さいころに毬をぶつけて落とした。」
 「…………………え?」

広間で父とキャッチボールをしておってな。その折の事故だ。
大急ぎで そくいでつけておいたがの。

 「?(そくい?)」
 「……ご飯粒のことです、久蔵どの。」

そんな事実なんて知らなんだし、
ご飯粒なんてな脆弱なものでくっつくものか、
それも…話の内容からすれば何十年も?
そんな安易な後処理へも、開いた口が塞がらぬ七郎次。
屋敷の冬支度の打ち合わせの必要があってと、
勘兵衛に連れられて戻った宗家。
陽あたりのいいリビングには、
先代主人や奥方の、趣味で集めたあれこれも置かれたままになっており。
それらを懐かしんで眺めていた途中、
ふわりと流れたカーディガンの裾が当たった拍子に、
広間の一角に置かれた壷の取っ手がポトリと落ちて。
ボタンが当たったか、かちりという堅い音も確かにしたものだから、
これはと真っ青になったおっ母様だったのが始まりの、
こちらの二人にすれば、かなり本気な逃避行だったっていうのにね。

 「〜〜〜〜。」
 「えっと……。」

――― ちょっと待って、
これって“笑える勘違いをした私たち”という、
片付けようで合っているのかしら…。

そんな気がしてしょうがないものだから、
竦み上がった心持ちが平生の位置にまで下がって来はしたものの、
勝手をしたと謝るべきか、いやいや それよりも、
滑稽な早とちりを自嘲すべきか。
だがだが、
素直に笑えないような気もした、金髪美貌の母子であるらしいのへ、

 「大体だ、儂がそのようなことで怒髪天を衝くよな、狭量な男と思うたか。」

そちらはそちらで…此処でようよう大きな溜息つきにて、
がっくりと肩まで落として見せつつ、
それこそ心外だぞとの憮然としたお声を出された勘兵衛様。
心外ついでと付け足されたのが、

 「またぞろ、ここいら一体への電気供給を止めさせていただいたのだしの。」
 「え? なんで…?」

話の流れから察するに、
勘兵衛にしてみりゃあ…それこそ昨年と違って、
そのような強攻策を執る必要はなかったのではなかろうかと。
素に戻っての、いかにも怪訝そうに訊いた七郎次へ、

 「門前払いを食ったからだ。」

微妙に恨めしそうなお顔を、これは久蔵へと向けて、

 「ここの家人らは、次代の主人に絶対服従らしいからの。」

そうと付け足し、ちょいと眇めた目許が怖いのは。
もしかして…本気での詰言、当てこすりなのでしょうか勘兵衛様。
とはいえ、
あらあらあらと、口許をきれいな指先で押さえてしまった恋女房に、
さっきまで抱えていたのだろ、
憂いや気病みをぶり返させるつもりはなかったようで。
人格の実直さを示しての堅い意志にて引き締まった口許、
ようやっと苦笑を滲ませてのほころばせ、
駿河での用も済んだし、さあさ帰ろうぞと…

――― 七郎次へだけじゃあなく、
次男坊へも手を延べるのを忘れない御主様。

  「〜〜〜〜〜。」
  「? 如何した?」

さあおいでと、広げられた腕へ自然と引き寄せられつつも、
何かしら釈然としないのが、その次男坊。
懸命真摯な態度で接すれば、素直さ無垢さが心に響くのへ、
愛しい愛しいとの眼差し向けてくださるおっ母様だが。
そんな直球では到底敵わぬ、老獪にして周到な、
袖斗のやたら多いところが、こちらの親父様の真骨頂と、
その懐ろへ取り込まれてから、ふと感じた久蔵だったりし。
例えば…こたびのドタバタの結末も、
よくよく考えれば すべては彼の舌先三寸。
どこまでの何がホントかは、こっちの二人には知りようがないことなれば。
それへと引っ掛かる隙さえ与えず、
あっさり鳧をつけてしまわれた、その手管の何とお見事だったことか。


  “…負けぬ。”


他でもない七郎次さんを籠絡せしめたお人ゆえ、
いつかは凌駕してやると、思ったらしい木曽の次代様だったけれど。
いいのか? こんなややこしい策士になっても。
(笑)
同じように思ったものか、屋敷を見下ろす中秋の月も、
群雲の陰へと身を隠し、ワタクシは何にも聞いてやいませんと、
知らん顔をば決め込みなさる……。






  〜Fine〜  09.10.27.


  *この夫婦はもうもうと、
   余計な手間を増やされ、直接の迷惑こうむった、
   駿河と木曽の“草”の方々が…そこまでを思ったかどうか。
   そして、

    「大おばの壷? 俺も取っ手落としたことあんで?」
    「なんや良親もかいな。」
    「そういう征樹もか。」

   一体何人、後ろ暗い人がいるのやら……。


めーるふぉーむvv
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